圭秀の修行日記


下駄の恩

 私は、以前医療機器会社のサラリーマンとして宮城県に赴任していた頃、休日には松島を訪れることがありました。日本三景の一つである松島には、伊達家の菩提寺となっている瑞巌寺(ずいがんじ)という寺があります。
 瑞巌寺(臨済宗)の正式名称は松島青龍山瑞巌円福禅寺といい、平安時代に慈覚大師円仁が創建したといわれています。その後、鎌倉時代に法身禅師(ほっしんぜんじ)が臨済宗円福寺として再興し、時と共に紆余曲折を経て江戸時代には伊達政宗公が現在に残る大伽藍を完成させました。

 法身禅師には下駄に関するこのような実話があります。法身禅師は、俗名を平四郎(へいしろう)と呼び23才で真壁城主(常陸国真壁郡)に仕えました。ある年雪見の宴で、城主時幹(ときもと)の下駄を懐で温めながら待っていたところ、尻の下に敷いていたと誤解されその下駄で額を割られてしまいます。周囲の雪面は真っ赤に染まるほどでしたが、平四郎は主人に抵抗することなく只々その場を逃げ去りました。

 平四郎はこのことがきっかけとなり、主人の時幹をいつしか平伏させてやると決心し、僧として大成する道を選ぶのです。平四郎は高野山で出家した後、中国へ渡り浙江省の径山寺(きんざんじ)で無準師範(ぶじゅんしはん)に学び、長期に及ぶ坐禅苦行の末に悟りを開きます。そして、無準師範から法身性西禅師(ほっしんしょうざいぜんじ)と名付けられるほど立派な僧となり九年後に帰国しました。鎌倉の建長寺に滞在中、先の執権北条時頼の願いを受け、七十才を過ぎてから松島に赴き天台宗延福寺を禅宗円福寺に改めました。

 名僧として有名となった法身禅師でしたが、各地を赴いている時に80才を目前にして、真壁山尾の光明寺で時幹に再会します。その際、床に飾ってある下駄と、禅師の眉間にある傷を何やら不思議に思った時幹が、禅師からそれらについての逸話を聞こうとすると、
禅師は

「遠く径山に登りて、帰りて開く円福の大道場、法身を透得(とうとく:真髄に至る)すれば無一物(むいちもつ)。元是れ真壁の平四郎」と叫んだのでした。

 驚嘆する元主人の時幹に禅師は「時幹様のあの下駄のお陰で、私は松島の瑞巌円福寺を再興することができたのです」と意外な言葉を発したのでした。禅師の心には、以前の平四郎が抱いていた「主人を平伏させる」という復讐心は微塵もなかったのです。そして、時幹もまた自分の過去の非礼を詫びたのでした。

「やられたらやり返す」という報復合戦では、何も生まれない。わが身に起こりうる困難を新しい体験をしながらいかに乗り越えて、自分自身を成長させてゆくかという大問題を私たちに投げかけている話であります。


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